TOGAWA LEGEND SELF SELECT BEST & RARE 1979-2008

TOGAWA LEGEND
SELF SELECT BEST & RARE 1979~2008

BOX

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私のベス卜•アルバムは今まで何種類かリリースされていますが、『東京の野蛮』以外はレコード会社主導企画で、私が知らないうちにいつの間にか出されてしまっていたものばかりでした。ファンの人から「サインしてください」と言われて、差し出されたCDな見て初めてその存在を知る、というようなことばかりが続いていたわけです。だから今回のように企画の段階から私監修のもと、制作進行すべてに関わることができたのは初めてのことでした。これが今回のベスト•アルバムの最も大きなポイントです。ソニー•ミュージックさんには本当に感謝しています。

次に音源に関しては、レコード、CDはもちろん、ビデオやDVDとかで正式に発売されたり、TVやラジオで放送されたり、といったように正式に発表されたものであること。意外と思われるかもしれませんが、未発表音源は収録されていません。DISC-3には非売品の音源も入っていますが、それは特典としてついたものなので、発表はされているということです。DISC-3の音源を選曲するに際しての基準は、レア音源の中から私が選んたべストです。今回、レア音源に関して調べてみたら、コーラスで参加しているものとかが驚くほど多かったので、コーラスだけのものや、ナレーションしているだけといったような、リード•ヴォーカル以外のものはなるべく外しました。版権の問題で泣く泣く割愛したものもあります。

私は歌手として活動する前の、すでに79年から女優として活動を始めていました。このアルバムは、そのエキストラ時代からカウントしようということで、タイトルの年号も1979年から始めることにしました。今までもアルバムで芸能生活10周年、20周年記念作品を出してきていますが、それも79年からカウントしたものです。

Legend 1:1979〜
ゲルニカ結成。¥ENレーベルからデビューへ

DISC-1

DISC-1

ここからは、私の個人史に沿って話をします。まずゲルニカに関してですが、上野耕路さんから新しいバンドへの参加を初めて打診された時、私は8½の時から上野さんのファンだったので、「どうしよう!どうしよう!」と、うれしさと戸惑いが入り交じった気持ちになったことを憶えています。

上野さんが私を誘ってくれた流れというのは、ナイロン100%で友達が誕生パーティをやっていた時、何も持たないで行ってしまったので、「歌をプレゼントします」と言って、「蘇州夜曲」をアカペラで歌ったのが、きっかけでした。その時の歌を8½の久保田慎吾君が録っていて、後で上野さんに聴かせたそうで、新しいバンドの構想が浮かんだと聞きました。だから上野さんは私の声にある程度合ったものをコンセプトとして持ってきでくれたわけです。私が好きな李香蘭とか渡辺はま子とかの大陸歌謡と、上野さんが好きな戦前の前衛クラシックとの融合という。一緒にやろうと思った相手が私でなかったら、そのコンセプトはなかった、と上野さんは言ってました。私が18歳、上野さんが19歳の時でした。

上野さんと80年に始めたそのバンドは81年に名前がゲルニカとなって、82年にアルファの¥ENレーベルからデビューしました。信じられないくらい順調に物事が進んでいったので、細野晴臣さんからレコードの話が来た時は、当然驚きました。こんなに下積みがなくていいのかしら、と。でもその時は自分が歌手という自覚がなかったので、脚本家や演出家が太田螢一さんと上野さんで、女優が私、という意識でやろうと思いました。「こんなふうにしたら?」なんて女優が脚本家や演出家に言うとおかしいから、なんにも言いませんでしたし。譜面を渡されるのは台本を渡されるようなものだと思っていましたから。だからレコードを出すとか、ましてどこから出すとかいうのも、考えたことがありませんでした。でも、YMOファンの方々にとって、¥ENレーベルからデビューしたというのは特別なことだったらしくて、こんな印象的なことがありました。

当時、私の唯一の機材であったエコー•チェンバーに¥ENレーベルのステッカーを貼っていたのですが、ある日のライヴでそれが剥ぎ取られてしまったんです。エコー•チェンバーごと盗まれるのでなく、ステッカーだけ盗られてしまったんですね。だから、そういう一部の人たちにとって¥ENレーベルというのは特別だったのかなと、当時思いました。

ゲルニカでのデビューと同時に私のファンの数も増えていきましたが、当時のファンの間には「戸川純は、こうでなくちゃいかん!」みたいな声が多かったのも事実です。そういう声に対して私は、これじゃあ行動範囲が狭まって女優の道が遠くなる、と思い、カリスマ視されないような行動を色々取らせていただきました。戸川純像というのをぶち壊すような、ふざけたことばかりを、『宝島』に連載していた「戸川純の人生相談」とかに書いて。カリスマ視されるよりも、笑いを取ゐことのほうが好きな人なんだ、と思われたかったんです。

Legend 2:1983~
『玉姬樣』を自己プロデュースで制作

82年12月にシングル「銀輪は唄う」を発表した後、ゲルニカは活動をいったん休止することになります。でも、レコード会社の契約が残っていたため、流れでそれぞれ3人とも1枚ずつアルバムを出すということになりました。それで、上野さんと太田さんの力を借りずに、いったい私に何ができるんだろうと思っていました。そんな時に、レコード会社が「中島みゆきさんとユーミンに曲を書いてもらう」と言ってきたんです。「それは……ご本人が歌ったほうがいいのでは……?」と返事をしたところ、「じゃあ好きなようにやってください。制作費はほとんどないけど」と言われたので、自分で電話をかけて周りの友達のミュージシヤンに頼み、またその流れのもと自己プロデュースで作ったのが『玉姬樣』です。その時は、1枚好きなことをやってから、歌手を辞めて女優に専念しようと考えていました。どうせ売れないだろうなと思っていたので。そうしたら、ゲルニカの時以上に売れたので、また驚きました。

アルバムのタイトルにもなった「玉姫様」の“六感は冴えわたる”というくだりは、もともと“第六感は冴えわたる”だったのですが、作曲をしてくださった細野晴臣さんが歌っているデモ•テープには”第”が入っていませんでした。それで、曲を書いてくれた恩を感じたので“第”を抜かすことにしました。細野さんには「隣りの印度人」のコーラスもしていただきました。

『玉姫様』からはシングル•カットをしなかったにもかかわらず、さまざまな方面から声がかかり、いろいろなテレビ番組に出演させていただいたのも忘れられない思い出です。これは強調しておきたいことなのですが、当時はテレビに出るとかっこ悪いという風潮があった中、私は臆せずテレビに出たんです。もともとの女優業のほうではすでにいろいろな役を準レギュラーやレギュラーでやっていましたし、あと、TOTOのウォシュレットのCMも続けたし。そういうふうに、メジャーなこととマイナーなことを同時期にやっていたのです。その後、テレビに出ることがかっこ悪いというイメージは薄れましたから、自分を評価してもらう中で、自分でもこれは評価されてもいいなと思う部分です。

Legend 3:1984〜
生理用品が飛び交った、初のソロ•ツアー

『玉姫様』を出してソロ•ツアーも初めてやりましたが、コンサートの盛り上がりにも驚くものがありました。ザ•スターリンのライヴは豚の臓物が飛び交っていたことで有名でしたが、私のライヴでは生理用品が……。あと、塩。“好きな食べ物は?”というアンケートに、面倒臭いから「塩」と書いたら、大きな袋に入った食卓塩がドサッとステージに投げ込まれたことが何度かありました。あんな大騒ぎなライヴになるとは思わなかったです、本当に。地味に地味にひっそりと売れて、ひっそりと闇に……みたいなっもりでいたんです。

ライヴでは、「蛹化の女」をパンク調にアレンジした「パンク蛹化の女」も演奏されていますが、この案も本当に偶然だらけの中から生まれたものでした。リハーサルをしていて、「蛹化の女」をどういうアレンジで演奏するかということになった時、私は二拍三連のプログレ風のアレンジにはしたくなかったんです。それであれこれやってみたものの、煮詰まって煮詰まって煮詰まって。最後にみんなでやけくそになって、気分転換にやったんです、ふざけて。「“ワン•ツー•スリー•フォー!”とか言ってみ?」、「私が!?“ワン•ツー•スリー•フォー!”」で始まって、♪ジャンツ♪って終わった時、みんなシ〜ンとして。「なんか……これでいいんじゃないか……」、「じゃあ、いっそ名前も「パンク蛹化の女」にしちゃう?」みたいな感じで、ゲラゲラ笑っていたんです。本当にふざけていましたね。“ワン•ツー•スリー•フォー!”から始めるとか、名前に“パンク”をつけるとか。笑いながらやっていましたから。

この時のライヴは『裏玉姫』として、カセット•テープという形でのみリリースされました。当時、カセット•テープはカー•ステレオで聴くために結構需要がありましたし、このライヴ音源もあまり家でかしこまって聴くものでもなぃとレコード会社が思ったのでしよう。ドライヴをしながらガンガンかけて楽しむのがふさわしぃ、みたぃな。作品の発表形態面における流行りとぃうのは本当にありまして、その後『極東慰安唱歌』を出した時も世間では12インチ•シングルが流行ってぃた時だったので、アナログは45回転のミニLP仕様とぃう形態でリリースすることにしました。流行ってぃたからとぃうよりとにかく、ぃぃ音で入れたぃとぃう思ぃがあったんです。

『裏玉姫』を出した84年にはシングルで「レーダーマン」もリリースしてぃますが、こちらはプロデュースをムーンライダーズの白井良明さんにお願ぃしました。基本的にソロや戸川純ユニット、ヤプーズに関してはセルフ•プロデュースでやってぃるのですが、この頃はレコード会社も私の要望を聞ぃてくれるようになっていたので、昔から大好きだった白井さんにやってもらうことにしたんです。白井さんがギタリストなので、ギター•サウンドになってぃぃ感じでした。B面に収録されてぃる「母子受精」は、国本佳宏さん——私は“もっちゃん”と呼んでぃました——がアレンジをしてくれました。「玉姫様」や「降誕節」の一部が間奏に入っています。分かる人だけ分かることをしたと言ってましたね。

Legend 4:1985〜
“ぃぃ音質”にこだわった、戸川純ユニット

「日本」をテーマに制作した『極東慰安唱歌』は、名義が“戸川純ユニット”となってぃます。これはソロでやりたぃことが『玉姫様』を出してしまったら何もなぃや、と思った時に、エンジニァの飯尾芳史君とキーボードの吉川洋一郎の3人だったら何か作れる、と思ったからです。最初はユニットの名前も考えるつもりでしたが、ぃぃ名前が思ぃつかなかったので、戸川純ユニットに落ち着きました。

先ほども言ぃましたが、アナログを45回転のミニ•アルバムとぃう形態でリリースしたのは、音にこだわりたぃとぃう私の意向によるものです。せっかく、エンジニアの飯尾君をメンバーにしてぃるわけですから。アナログでは「家畜海峡」と「人間合格」は自らボツらせました。ただ後に、12インチ•シングルでは曲数が足りなぃから当時の規格ではCDにできないとレコード会社に言われ、後にCDの規定がゆるくなった時に追加収録することにしました。

このようにこの頃は、レコードの作り方とかもだんだん分かってきた頃でした。レコード会社に自分のやりたいことをどう主張すればいいのか、その仕方が分かってきたし、音作りの時にもミックスなどの細かい部分にまでいろいろな意見を言うようになっていました。だからこそ、飯尾君をメンバーにしたわけです。「眼球綺譚」は高橋幸宏さんがドラムを叩いてくれていますが、これは確か飯尾君が幸宏さんに頼んでくれたからだと思います。

『極東慰安唱歌』では沖縄民謡の「海ャカラ」も取り上げていますが、これは映画『パラダイスビュー』に出演したのがきっかけでした。映画の中で私はこの曲を歌っているのですが、歌が下手という役だったので、演出上、下手に歌ったんです。そうしたら、沖縄で試写会を開いた際、アンケートに「聴くに堪えない」と書かれてしまい、「そういう役なのに!」と思ったんです。それで、この機会に大好きな曲でもあるし丁寧に歌い直したいということで、録音しました。『パラダイスビュー』の撮影時に私がこの歌の練習をしていて、沖縄のおばあさんから「あんたはスジがいい。あたしの弟子になりなさい」と言われたのはうれしかったし、もともと沖縄民謡が好きだったというのもありましたから。

Legend 5:1985〜
あくまでも個人レーベルだった、HYS

『玉姫様』を出した時、雑誌のレビューなどで“文学”とたくさん書かれましたが、『極東慰安唱歌』でもまた同じようなことを書かれました。それでまた例の、裏切りたい気持ちが募ってしまい、「好き好き大好き?!」といった、ラヴリーな歌を歌いたくなりました。『好き好き大好き』はそういう思いのもと、恋愛というコンセプトでいろいろな恋愛のかたちにアプローチしてみたアルバムです。

「遅咲きガール」、「ヘリクツBOY」では妹の故•戸川京子が作詞をしていますが、これは「眼球綺譚」に対して、雑誌のレビューで「純ちゃん、ちょっとメジャーにこびちゃったのかな?」と書かれたのがきっかけです。かわいい声で歌っていたからそう書かれたわけですが、それを読んだ時、「かわいい声で歌って何が悪い!」と思って、もっとかわいい、私がふだん歌わない歌詞を人の手を借りてでも歌いたくなったんです。そうしたら、すごい近くにそういう詞を書く才能を持つ人がいたんですね。♪裏切つちゃったらバカバカ♪とか、こんなキャッチーなフレーズを書く才能は、私にはないですよ。ちょっとすごいなぁと思います。ちなみに「遅咲きガール」、「ヘリクツBOY」で作曲•編曲、「エンジェルベイビー」で編曲者としてクレジッ卜されている“小松世周”は、ギミギミギミックスで一緒にやっているブラボー小松君のことです。ここでは、本名でクレジットされています。それと、このアルバムからレーベルが¥ENではなく、HYSという新しいレーベルになっています。

ゲルニカを休止した時にまだ残っていたアルファとの契約は、『裏玉姫』と『極東慰安唱歌』を出してすでにクリアしていました。ちょうどそんな時、アルファが「新しくレーベルをあげるよ」と言ってきて、それがHYSでした。私のほうから「ください」と言ったわけではありません。レコード会社からは「新人を探して純ちゃんがプロデュースしてもいいんだよ」なんてことも言われましたが、HYSはあくまでも私個人のレーベルというつもりだったので、そんな気もありませんでした。交流のあるバンドから「HYSからレコードを出させてくれ」という電話がかかってきた時も、「悪いけどね、私個人のレーベルなのよ」と言って断わりました。

HYSからは『好き好き大好き』の他にシングル「遅咲きガール」、「さよならをおしえて」とライヴ•ビデオ『TOUR-LIVE ’85〜’86』を出し、ベスト•アルバムの『東京の野蛮』が最後のリリースとなりました。これはゲルニカ以外の私関連の音で構成されたベスト•ァルバムですが、レコード会社が出してくれと言ったから作ったわけではなく、「アルファでの最後の仕事としてベスト盤を出したい」と私のほうから言って作ったものです。アルファを辞める時の置き土産みたいなものですね。そういう作品でしたので、選曲からトラックダウンまでベッタリつきあわせてもらいました。「パンク蛹化の女」で最後に♪私は虫の女ー!♪と叫ぶところをドラムにドコドコドコッて殴られるようなミックスにしてくれとか、そんな表現も交えていろいろ言いました。飯尾君はその注文通りの音にしてくれると同時に、自分のアイデアをいっぱい……オリジナルとは違う、しかもグレードアップした形でミックスに反映させてくれました。飯尾君はすごいなとしみじみ思います。

このアルバムには、たとえば「レーダーマン」のようなSFっぽい設定の曲が入っていたりして、これは“東京”みたいな感じ。その一方で「諦念プシガンガ」みたいなのも入っていて、こちらは“野蛮”という感じ。そういう相反するものが両方入っているから、タイトルを『東京の野蛮』にしました。東京での野蛮、ということです。東京の中で一部で野蛮なことをしている、みたいな。

Legend 6:1987~
ヤプーズ、バンドとして本格始動

DISC-2

DISC-2

1987年はヤプーズを結成し、レコード会社を移籍して新しいアルバムを出すなど、ヤプーズとしての本格的な活動がスタートした年でした。その頃、女優活動のマネージメントをしてくれている事務所とは別に、音楽活動面で面倒を見てくれていたのが、N-2という事務所でした。

N-2でヤプーズのメンバーとミーテイングをしていたある日のこと、私は「紙をちようだい!」と言って、その紙にヤプーズとしての活動計画を書きました。“何月にアルファを辞めて、何月にテイチクに移籍して、何月にアルバムを出して、何月にツアーをする”というようなことを表にして、バーッと書いていったんです。そこの頭にタイトルのように書いたのが、『ヤプーズ計画』。それをアルバムのタイトルにもしたんです。

その頃から名義も、“戸川純とヤプーズ”ではなく“ヤプーズ”にしました。『玉姫様』の時は、1年やったらヤプーズは解散、みたいな遊びのつもりでやっているところがあったのですが、ツアーをしていくうちに、“ヤプーズを私のバック•バンドにするのではなく、私もバンドの一員になって一丸となってやっていきたい。ヤプーズというバンドで改めて再デビューしたい”という意識が芽生えてきたんです。そして、ちようどヤプーズのほうもメンバー•チェンジを何回か経てメンバーが固まり、バンドとしての自我を持つようになってきていた時期だったらしいんですね。『宝島』を読んでいて、“泯比沙子のアルバム『LOVE&WAR』の「LOVE面」をヤプーズが全面バックアップ”と書いてあるのを見た時は、ビックリしました。キーボードの吉川洋一郎がプロデュースをしていたからそうなったわけなんですけど、私の知らないところでヤプーズという名前がすでに一人歩きをしていたんです。そういう時だったから、みんなでやりたくて。後で聞いたのですが、ヤプーズのメンバーも同じようなことを言っていたそうです。「お互いリスペクトし合えるメンバーになったんだから、ヤプーズとして独立をしよう」、「となると、やっぱりヴォーカルは純ちゃんだろう」、「それを純ちゃんに言ったら、きっと喜ぶぞ」と。でもその時は両方とも相手がそう思っているとは知らずにやっていたので、実は私も同じことを、みたいな。だから、それを知った時はとてもうれしかったですよ。それで、バンドにするのだったら、バンドバンドした感じにして、“私のソロとは違う!”という今後の方向性を明確にしようと思ったんです。

シングルにもなった「バーバラ•セクサロイド」は、ヤプーズのそういう姿勢を明確に表しています。まずは「バーバラ•セクサロイド」をヤプーズのイメージ•キヤラクター曲みたいにしよう、と。それは、私がものすごく言いました。スパイ物っぽく、ブラスを入れて、とかほんとに具体的に。それに合わせ『007』の『ゴールドフインガー』みたいなプロモーシヨン•ビデオを撮った時も、「もう私はヤプーズのために水着になる!」とか言って、身体に金粉を塗って頑張りましたし。誰もそんなの頼んでいないのに。胸の谷間とか強調して、おへソも出して。それまで私は自分の体型を隠すような格好をしていたので、セクシュアリティを強調した格好をするのは自分にとって、とても怖いことでした。でも、ヴィジュアル的にも今までの私から違うものへという決意で、フリフリでロリロリ、あるいはコム•デ•ギヤルソンの衣装をやめてボンド•ガールみたいな格好をしました。私が子供の頃に放送されていたテレビ•シリーズの『バットマン』には、セクシーだけど悪役という女性キャラクターが出てきたので、それをイメージしてみました。あとはロック•バンドの女性ヴォーカリストということで、ランナウェイズのチェリー•カーリーとか。でも、とても慎重でした。光りモノは一切つけてないし、ヒールのないブーツをはいて、口紅も赤でなくゴールド。水っぽくならないよう細心の注意をはらったんですよ。

プロモーシヨン•ビデオにはヤプーズのメンバーも出演していますが、それもバシド感を出すための演出としてです。目立ちたがりやの人にはいい感じに演技力を必要とするものを要求してみたり、できればやりたくないという人には窓からポーンと飛ぶだけでいいからとか、一人ひとり無理のない役をやってもらいました。その仮編集したものを『ヤプーズ計画』のレコーデイング中にスタジオでメンバーみんなが各々の演技を観て「キザだ」とか「今回は負けたな」とか言いながらゲラゲラ笑って喜んでいるのを見たら、その次から楽になりましたね。これだったら、今後のプロモ•ビデオ、いろいろやっていけるぞ、と。ヤプーズでは、あくまでも音はメンバーの全員プロデュースですけど、ヴィジュアル•コンセプトのプロデューサーは私でした。

Legend 7:1988~
ゲルニカ再始動の理由は、ただやりたかったから

ヤプーズが本格的に始動した87年の翌88年にはゲルニカも復活を果たし、『新世紀への運河』を発表します。

ゲルニカ復活は、上野さんから突然かかってきた電話が始まりでした。街で偶然に上野さんと会ったという京子から「上野さんがお姉ちゃんに会いたいって言ってたから、連絡先教えといたよ」という報告を受け、「連絡くれるかなぁ?」と思っていたら、本当に連絡がありまして、それで何度か会って、趣味の話だけをする“恋愛感情の一切ないデート”みたいなことをしました。前と変わらず、好きな映画とか、お互いの趣味が合っていたので。そうしたら何回目かの時に「またゲルニカをやらないか?」と言われたんです。その時は、そう言われるのを分かっていた気がしたから、すんなり「はい」と言って、そこから先は速かったですね。だからゲルニカの復活は、また、上野さんから言われたから、やりたいからやっただけ。当時、雑誌のレビューでは、「なぜ今ゲルニカをやるのか、意味が分からない」とか意味を問われてしまいましたが、「やりたいからじゃダメなのか?」と思っていました。意味なんかないんですよ。確かに、再結成とか復活というと、そこに何かしら意味が求められてしまうのはよくあることですね。たとえば、93年にYMOが再結成した時でしたら、第2次テクノ•ブームが来てYMO再評価の声が高まっていたからだ、とか。でもゲルニカの場合は、そういう音楽シーン的な意味合いから復活したわけではなかったんです。

Legend 8:1989~
昭和の最後の年に ギリギリ間に合った『昭和享年』

1989年は、ちょうど私の芸能生活10周年に当たるということで、『昭和享年』という芸能生活10周年記念アルバムをリリースさせていただきました。この企画は、芸能生活10周年記念というのがレトロ好きの戸川っぽいな、と思ったからです。ちょうど80年代の終わりであると同時に、89年1月が昭和の最後ど平成元年でもあったので、昭和の最後の年に出したいなと思い、慌てて企画書を書いてレコード会社に出したら、ギリギリ12月に間に合いました。そして私の考えたコンセプトに合う個性を持った人は誰だろうと考えた時に思い浮かんだのが、上野耕路さんと平沢進さん。それで、お二方にアレンジをお願いすることにしました。

それから、企画ものだからできることとして、私はこのアルバムの前半で特殊なミックスをしたいということも考えていました。それこそ昔のSP盤に針を乗せた時に出るようなジジジッてノイズから始めたいな、と。それで2曲目は疑似ステレオにして、3曲目からステレオになる。前半のそういうレトロなオーケストラっぽい感じは上野さんが得意なので、上野さんに頼むことにしたんです。

後半3曲のアレンジは平沢さんに担当してもらいましたが、平沢さんとの出会いは86年頃でした。86年の大晦日に行われた「第3回ナゴム総決起集会」というイヴェントに呼ばれて2曲歌ったのですが、そのイヴェントに平沢さんもP-MODELで出ていたんです。その時は「頑張ってください。ファンです」と簡単な挨拶をしただけでしたが、その後、P-MODELのアルバムでゲストで歌ってくれないか、という話が平沢さんから来ました。でもその時は話が流れて、89年に発表された平沢さんの初ソロ•アルバム『時空の水Jでようやく形になりました。それが「仕事場はタブー」という曲です。平沢さんとはそれからもお互いのライヴに出て他の曲でも歌ったり、ヤプーズで弾いてもらったりと、交流が続いていきました。

『昭和享年』では、最初は平沢さんに「リボンの騎士」と「夜が明けて」の2曲をやっていただくつもりだったのですが、原曲の音を送らせていただきますということになった時、上野さんにやってもらおうと思っていた野坂昭如の「バージンブルース」の音を、マネージャーが「手違いで平沢さんに送っちゃった」と言ってきたので、「なんてことしてくれたの!」と慌てました。そうしたら平沢さんのほうから連絡がありまして、「僕、この曲好きだから、やりたい」と。それで、ぜひ、と思ってやってもらいました。

「バージンブルース」は後に90年にシングルでもリリースされていますが、これのB面にはちょっとした逸話があります。『ヤプーズ計画』の頃はレコーディングやビデオの制作•編集など、音楽方面の活動が忙しかった私ですが、『昭和享年』を作る頃になると、今度はテレビや舞台の仕事のほうが忙しくなってきていました。『ハロー!ムービーズ』という映画情報番組のナビゲーターや、『夜のヒットスタジオR&N』の司会をレギュラーで務めるなど、女優業以外のテレビ仕事も精力的に行なっていました。そうした忙しさの中で椎間板ヘルニアを悪化させてしまい、大手術をすることになったんです。その頃は、2時間だけ効く薬を注射してもらって『夜のヒットスタジオR&N』の生放送をこなさなければならないくらい多忙なスケジュールの中で、体が痛くて痛くて動かない状態にありました。入院した時、お医者さんにも言われましたから。「これほどひどいヘルニアは初めて見ました。あなたほどの人が3人いたら、手術してそのうち一人は下半身不随になります」と。だから最悪の場合、もしかしたらこれで歌手としての自分は最後になるかもしれないから、「吹けば飛ぶよな男だが」を録音してシングルで出したい、と思ったんです。

「吹けば飛ぶよな男だが」は、もともと『昭和享年』に入れるつもりの曲でしたが、収録時間の関係で選曲から外していました。それで、この一連の手術のこともあるから、どうしても発表しておきたかったんです。最後の最後まで諦めたくなかったから。レコーデイングは手術の前日にお医者さんから特別に許可をもらい、車椅子でスタジオまで行って録音しました。アレンジは引き続き、平沢進さんにお願いしました。平沢さんなら、こういう人情ものとか平気だな、ともう分かったから。それでこの曲をカップリングにした「バージンブルース」をシングルで出したい、という話を平沢さんにした時、「どうせだったら「バージンブルース」もシングル用にアレンジを変えたほうがいい」と言ってくれて、♪ジンジンジンジン〜♪のところにオルゴールみたいな音が入つて……平沢さんも言ってましたが、海上自衛隊みたいなムードのアレンジになったんです。レコーデイングの翌日に行った手術もおかげさまで成功し、私はリハビリを克服して91年には復帰することができました。その第1作となるのが、『ダイヤルYを廻せ!』です。

Legend 9:1991~
理想のロック•バンドになった、90年代以降のヤプーズ

91年に発表したヤプーズの『ダイヤルYを廻せ!』は、復帰作にふさわしい元気一杯な作品になりました。「Men’s JUNAN」のプロモーシヨン•ビデオでは東京タワーの下で踊ったりしていますし。プロモーション•ビデオといえば、当時何回か出演したことがある『MTV JAPAN』という番組では、視聴者から投票を募ってベスト•ビデオを選ぶということをやっていました。その中のひとつに「バージンブルース」が選ばれ、アメリカのMTVが毎年行っているお祭りみたいなので上映されて評判がよかった、と聞きました。MTVからは腕時計の針のところがMTVのロゴになったMTVウォッチというのが記念に送られてきて、今でも宝です。

そういうことがあった関係からなのか、アメリカのMTVは「Men’s JUNAN」のビデオも放送してくれたようです。当時『釣りバカ日誌』で共演させていただいていた谷啓さんから、こんなことを言われたことがありました。「仕事でニューヨークに行った時、東京タワーの下で戸川さんらしき人が踊ってるビデオをテレビで観たんですけど、あれ……戸川さんですよね?」と。おそらく何回か流してくれたのではないでしょうか。

『ダイヤルYを廻せ!』はジャケットやブックレットにダダみたいなコラージュが施されていますが、あれはジャパニーズ•ダダという感じをデザイナーがイメージしたものです。もともと私はダダよりマニエリスムやシュルレアリスムが好きで、きちんとなっているところの一ヵ所だけをグニャッと曲げたようにするところに面白さを感じていました。それに対して、ダダは最初から壊れている感じがしたので、あまり好きではありませんでした。でもその頃はダダもわりと面白いなと思った時期だったので、たまたまジャケットだけそういう感じにしていただいていて、すっごく気に入りました。でも音は別にダダではなくて、むしろどんどんポップになっていく一方でしたが。次のアルバムが『Dadada ism』なので、「この時期のヤプーズは、ダダイズムへの純ちゃんの興味が反映されているのではないか?」と深読みをされる方もいらっしゃいますが、そういうわけではありません。何かいいタイトルないかなぁ、と思った時に、なんか、こう、アルバム自体も音もダダダーッと走ってきた感じがして、いいなって。ちょっとくだらない理由なんですけどね。ファンの方から、「この次のアルバムのタイトルも“ダ”で始まるだろう」と書かれたファンレターが届き、なるほど、意識していなかったけれど偶然続いてるな、と気づきました。

リハビリで復帰して、元気出るのがいいと思ったので、『ダイヤルYを迴せ!』は過剰に元気な感じにしましたが、『Dadada ism』の頃になると、メンバー•チェンジを経てライヴのサポート•メンバーを増やすなど、模索の中から第二期のメンバーが固まる時期にさしかかっていました。ドラムが新井田耕三さんでキーボードがライオン•メリィさんで、とか。それでしっかりとヤプーズを見てくれる職人気質の、安定感のある骨太なメンバーになったわけです。やっと10年かけてヤプーズはロック•バンドになったな、という感じでした。だから、『Dadada ism』ではちょっとシックな感じのものにしても大丈夫だろうと思ったんです。それでバランスを取るために元気なのもほしいなと思い、私は「テーマ」という曲を書いたわけですが、マスタリングの時に、どこに入れていいのか分からず、アルバムの最後に入れることになりました。途中に入れると浮いてしまうくらい、アルバム全体がシックだったんですね。

p5しっかりとした骨太なロック•バンドになったことで、90年代初頭から中盤にかけてヤプーズはライヴも精力的にやっていました。そのため、毎回違ったライヴのタイトルを考えるのが大変になってしまい、「ヤプーズの不審な行動」というシリーズに日付をつけたタイトルで毎回やっていくことにしました。だから、95年に出したライヴ•アルバムも、タイトルはすぐつきました。そのシリーズだから、『ヤプーズの不審な行動』。この時はニューウェイヴィーなものを期待していた人とかが、「ロックだ!」と批判的に言ったこともありましたが、私は気に入っていますね。このアルバムはちょうどEMIを辞めてコロムビアに移籍する間にインディーズで出したもので、選曲的にもいろいろな時代をまたいでいるから、ヤプーズのベスト盤の意味も兼ねています。それが、私がこのアルバムを好きな理由のひとつ。代表曲である「パンク蛹化の女」は入っていませんが、あれは何回も入れるものではないですしね。そしてレコード会社を移籍して95年に出したのが、『HYS』です。

『HYS』は、かつてのレーベルと同じタイトルだということで、「純ちゃんはこれを最後に活動をひと区切りするんじゃないか」とか「純ちゃんの中で“HYS”というのは特別なナントカなのだ」みたいな深読みをずいぶんとされました。でも本当のところはそういうわけではなく、アルバム全体の雰囲気に即してつけただけ、です。

『HYS』のコンセプトは“思春期”でした。その頃は自分からキャッチ•コピーを「遅すぎた思春期。早すぎた更年期」にして、評論家の方々から取材をされると、それがとても当たっていると指摘され、顔を赤らめたものです。ただ、音に関しては、特に思春期っぽさというか、かわいいという感じを狙ったりするようなことはしませんでした。わりとこの一連の、『ダイヤルYを廻せ!』、『Dadada ism』に続く感じです。“思春期”はあくまでも歌詞の部分でです。どうしてそういうのがやりたくなったかというと、ずいぶんと年が思春期から離れたから、あえて10代なものをやってもいいかな、と思ったんです。20代とかだと、まだ混じっている感じがするけれど、もう30代だから第三者的な目線から見た感じで書くことができる。だから、書きやすかったですね。歌詞には、私自身の思春期の実体験が素材になった曲もあります。私は基本的には似たような体験がないと、書けませんから。似たような体験をしていないと、説得力が出ないと思いますし。だからといって「肉屋のように」みたいに、好きな人を食べてしまうようなことはしたことありませんが。でも相手のことを食べてしまいたいなというのは誰もが抱く思いですよね。だから私の害いた詞はどれもフィクションであり、でも似たような心境になったことがある、ということです。

詞に関しては実は私、一個だけ天才だと思っていることがあります。それは、字数をピッタリとはめる、ということ。それだけは自分を誉めてあげたいと思います。基本的にヤプーズは曲先なのですが、曲先と思わせないように字数をピッタリ合わせることに関して私はすごく自分にうるさいんです。たとえば『Dadada ism』では平沢さんが曲を書いた「ヴィールス」とか、曲負けしそうな曲に、曲負けしない歌詞をちゃんと書いて、字数もピッタリはめたと思いますね。この他に字数自慢は、メリィさんの「12階の一番奧」とか『ダイヤルYを廻せ!』の中ちゃんの「供述書によれば」とか。

ヤプーズとしてはこの後、99年に『CD-Y』をツアー会場のみという形で販売しました。2003年にはリイシューされて普通に買えるようになっていますが、これはヤプーズの次に出す予定のニュー•アルバム『霊長類ヤプーズ品目ヒト科』の予告編みたいな意味で出した作品です。アルバムへのラフ•スケッチ、みたいな作品だったので、収録曲はアレンジを変えてアルバム本編に入れることになると思います。そのような背景から、今回のベスト•アルバムには収録しませんでした。

Legend 10:2000〜
即興への興味が生み出した、戸川純バンド

2000年以降は、珍しくセルフ•プロデュースではなく、ホッピー神山プロデュースの20周年記念ソロ『20th Jun Togawa』や、戸川純バンドのミニ•アルバム『Togawa Fiction』など、ホツピー格みの作品が続きます。ホッピーと一緒にやるようになったのは、ちようどその頃、即興をやりたいなという時期だったんですね。私は即興というのは、どこかとてもアンダーグラウンド的な感じがして、それまではわりと避けてきたところがありました。私はゲルニカから出発した“譜面で始まっていゐ人間”だったので、譜面に書かれていない即興やフェイクというのは「どうしたら、できるんだろう?」というレベルにあったわけです。でもその頃は、それが面白くなった頃だったんですね。そんな時、ホッピーが近くにいたので、一緒にやることにしました。
『HYS』を出した後、ヤプーズは活動休止みたいな感じになっていて、私もさんざんやりたいことをやったから、もうバンドは辞めようかなと思っていた時期でした。そんな時、ベースの中原信雄がデニス•ガンという日本在住のアメリカ人ギタリストとバンドをやってたので、ライヴを観に行ったところ、デニスのギターが気に入ってしまったんです。それで「一緒に今度なんかやんない?」、「ああ、やろう!」ということに発展していき、戸川純&デニス•ガンで一回だけライヴをしました。その時のライヴではゲストを呼んで一緒にやる曲が3曲ぐらいあり、ゲストが5人くらい出てくれたのですが、全員ものすごいプロだったので、デニスが押さえるコードを見ながら、リハーサルもしていない曲を弾いてくれました。それを見て、「これが、インプロヴィゼーシヨンのカかー!?」ど圧倒されてしまったんですね。それで、そのメンバーを中心にホッピーがいろいろな人を紹介してくれて、20周年記念盤の『20th Jun Togawa』を作ったわけです。そしてそのメンバーでライヴをやるということになった時、“戸川純バンド”という名前が情報誌に載っているのを目にしたので、バンドの名前はそれでいいや、と簡単に。それで、戸川純バンドでアルバムも1枚作ろうということになり、出来たのがミニ•アルバム『Togawa Fiction』です。

Legend 11:2004〜
東口トルエンズ、誕生逸話

『Togawa Fiction』をリリースした2004年には、山本久土君とアコーステイック•パンク•デュオの東口トルエンズも結成しました。最初、私が冗談で「“東口トルエンズ”な〜んて名前があったら面白いね。ァハハハハ」と笑っていたら、久土君が「そのバンド名、俺にくれ!その名前で俺はバンドを結成する」と言ったのが、始まりです。私と一緒にやる、ということを最初から決めていたわけではないんですね。その後、久土君の中でバンドの構想は「一人でやることにした。アコースティック一本でやるんだ」と変わっていき、それまでアコースティックをやったことない人だったのだけれど、吸収がすごい速い人だったから、すぐに「俺、ライヴやることにしちゃった」ということになったんです。それで「純ちゃん出てくれない?3曲歌ってよ」と言うから、快諾しました。でも、その時のライヴで久土君は本当は私にもっと歌ってほしいと思っていたんだそうです。私も本当はもっと歌いたかったのですが、久土君のソロだからということで、お互い遠慮してたんですね。それがお互い分かった時点で、最初が久土君のソロのコーナーで、あとは「これより本編の始まりです」と久土君がおかしなことを言ったりして私が出ていく、という形になりました。

p6東口トルエンズは2005年に『東口DVD』というライヴDVDをリリースしています。CDではなくDVDというフォーマットで発表することにしたのは、私がDVDにこだわったからです。それはレパートリーがカヴァーばかりなので、CDはちょっとキツいんじゃないかと思ったのと、もうひとつ、かつて久土君はヴォーカリストもやっていたことがあるから、観応えがあると思ったからです。観ていて、面白い。だからDVDにこだわったんですね。今回はそのDVDから「東口トルエンズのテーマ」の音源を収録させていただきました。

「東口トルエンズのテーマ」はアニメ『侍ジャイアンツ』のテーマ曲を替え歌にした楽曲ですが、この曲をやゐことにしたのは、最初、「あの歌覚えてる?」、「覚えてる!」とふたりで盛り上がった曲があったのがきっかけです。久土君が「ちょっと探してみる」と言って、アニメの主題歌を集めたCDのボックスから見つけたのが『侍ジャイアンツ』のテーマ曲。「でも俺、ジャイアンツ嫌いなんだ」と久土君が言うから、「じゃあ、トルエンズにすればいいじゃん!」と私が言って、歌詞も野球の部分を音楽に関する言葉に置き換えていったわけです。“バッター キャッチャー ぶっとんで”というところを、私が「“音響 照明 ぶっとんで”にしたら?」とか、“見ろよあいつの ピッチング”を「“見ろよ あいつの ピッキング”にしたら?』とか言って。非常にくだらないですね。でも原曲がいいのと、久土君のギターがすごくいいのとで、名曲だと思っているんですよ。東口のテーマ。

Legend 12:

DISC-3

DISC-3

DISC-3 曲解説

ここからはDISC-3に収録された楽曲の解説をしていきたいと思います。

1.マスタード/ハルメンズ(『ハルメンズの20世紀』)

上野さんとゲルニカをやることはもう決まっていましたが、その頃私はレコーディングもライヴもしたことがありませんでした。だから、これは送り手側としての初めての曲です。サエキけんぞうさんに頼まれてコーラスで参加することになったのですが、私にコーラスをしてほしい理由として、サエキさんはすごいことを言いました。「ハルメンズのこのアルバムは、レコーディングして、すぐに廃盤になる。そして君はゲルニカで有名になる。そうすると、君関係で復刻される」と。本当にそうなりました。

2.月世界旅行/アポジー&ペリジー(『超時空コロダスタン旅行記』)

これは、「裏切った」とか「メジャーにこびちゃったのかな純ちゃん」とか雑誌のレビューで書かれてしまった「眼球綺譚」の前に録った曲で、CMソングとして依頼されたものです。こういう声で歌ったのは初めてのことでした。わりと、変なところで息継ぎをしてみたりとかもしています。子供が歌っているみたいな感じにしたいなと思ったから。この声を聴いたディレクターが、「この声は……まだ出したくなかった」と言ってましたね。「CMソングとかじゃない形で出せばよかったのに」と。

この頃、歌謡界では松本隆さんと細野晴臣さんのコンビが松田聖子さんをはじめたくさんのヒットを飛ばしていた時期でした。この曲も、はっぴいえんどというよりも、そういう側面が出たCMソングだと思えてうれしかったです。Aの部分の始まりがこのコードから、というのが、さすが細野さんですね。

3.真空キッス/アポジー&ぺリジー(『超時空コロダスタン旅行記』)

これも松本隆さんと細野晴臣さんのコンビらしいテクノ歌謡な感じがして、とてもうれしかった曲です。もともとメロディアスなものが好きですしね。「月世界旅行」とこの曲でコーラスをしているのは、同じ¥ENレーベルだったSET(スーパー•エキセントリック•シアター)の三宅裕司さんでした。

4.フィギュア&グラウンド/のいづんずり(『抱擁』)

ゲルニカで京都にライヴに行った時、対バンだったのがEP-4と、のいづんずり、でした。その時、リーダーと知り合いになり、「参加して」と言われて、レコーディングだけでなく、ライヴにも出ました。パーカッションもやりました。しかも、珍しく即興で。ギターがいい仕事をしていますね。今回の収録に際して、歌詞は一部修正してあります。

5.G(家畜海峡)/戸川純(カセット•ブック『GGPG「ALPHABET」1』)

これは、『極東慰安唱歌』に入っている「家畜海峡」の原型です。本編の『極東慰安唱歌』に入ってる♪えいやさほい〜♪という掛け声は、編曲をしてくれた当時じゃがたらのOTOが考えたものですが、このテイクで♪えいやさほい〜♪と言ってるのはもうふたりいて、ひとりは大阪の男の子で、もうひとりがサンディー&ザ•サンセッツの久保田麻琴さん。アルファで知り合って、親しくさせていただいていました。

6.聖なる泉〜モスラの旅立ち/井上誠(『ゴジラ伝説』)
7.神聖ムウ帝国亡国歌/井上誠(『ゴジラ伝説Ⅱ』)

伊福部昭さんの曲だから、依頼が来た時はうれしかったです。「神聖ムウ帝国亡国歌」は、『玉姫様』のツアーの時、カラオケをバックに歌いました。すごく好きだった曲です。

8.おおブレネリ/卷上公一(『民族の祭典』)

これは、ゲルニカの早い時期のことでした。上野さんの家で練習をしている時、巻上さんから上野さんに電話がかかってきたんです。「あっ、巻上君?えっ!うん、いいよ。なんとかかんとか」って上野さんが言って、ガチャって切って。「あの……卷上君のソロで歌うように」、「はっ!?いいんですか?」、「いいですよ」つて。この頃は上野さんが私を楽器として他のアーティストの作品やライヴに貸し出すか否かを決める権限を握っているみたいな感じでした。ゲルニカを始める時、私は上野さんに言ったんです。「分かりました。覚悟を決めて、やると言ったらとことんやります。上野さんの楽器になります!」と。そうしたら上野さんが、「君は官能的なことを言うね」と言ったのを覚えています。

9.リズム運動/泉水敏郎(『LIFE STYLE』)

18歳の時、日比谷公園で鳩に豆をやっていたら野外音楽堂から“ドンドンドン……”という音が聴こえてきました。それで行ってみたら、コンサートをやっていたんですね。リザードとかRCサクセションとか遠藤賢司さんとかが出ていたのですが、ちょうど私が入った時に演奏していたのが8½でした。そこで初めて「リズム運動」を聴きました。この曲は泉水さんの在籍した8½、ハルメンズ、ヤプーズでやっていますが、これはセンちゃんのソロ•アルバム•ヴァージョンです。「ソロ •アルバムで歌ってくんない?」と言われて、快くオッケーしました。レコーディングの時に「なるべく普通に」とディレクションされ、何が普通なのかよく分からないから色々やったら、「それ!」とか言われたので、「じゃあ、このパターンで」と歌いました。私の声にはいろいろなパターンがありますが、第三者からすれば、これがいちばん普通の声なのでしょうか。私には分かりません。私にとっては、他であまり出していないレアな声質のつもりです。

10.ラジャ•マハラジャー/戸川純(NHK『みんなのうた』)

吉川洋一郎から「歌ってくれないか?」と話が来たので、歌いました。NHKでは他にも女優業やラジオドラマや朗読とかいろいろな仕事をやっています。この時は、若いお母さんから「子供と一緒に歌っています」という手紙が来て、すごくうれしかったです。

11.蘇州夜曲/戸川純(TBS系テレビドラマ『刑事ヨロシク』)

『刑事ヨロシク』は私の初めてのレギュラー番組で、私がこういう歌を歌っていると知ったプロデューサーでディレクターの久世光彦さんが、第9話と最終回で大陸歌謡を歌わせたんですよ。最終話では「何日君再来」を歌いました。これは第9話で歌った時の音源で、刑事部屋の椅子とかを片づけながら、「やっぱり愛ね。愛がいちばん尊いわ」と…もちろんギャグですよ。そう言って、♪君が〜♪ってひとりで歌ってるうちに途中からギターが入ってくるという演出でした。でもそれって、絶対音感がないとできないことなんですよ。最初にキーをキープしてないといけないから。それがどれだけ大変か、現場のほとんどの人は分かっていませんでしたが、ギタリストさんだけが「絶対音感ですね」と言ってくれました。ドラマでは、途中からビートたけしさんが歌で入ってきてデュエットをしているのですが、今回は諸般の事情でフェイドアウトすることにしました。声もキレイに出たと思います。

12.降誕節/戸川純(V.A.『WE WISH YOU A MERRY CHRISTMAS』)

実はこれ、メロディを一部間違えて歌っちゃってるんですよ。リリース後に気づきました。まっなくもってお恥ずかしい。¥ENレーベルでクリスマス•アルバムを作る企画が上がった時、「純ちゃんは何をやりたい?」と聞かれたので、「「降誕節」やりたいです」と素直に答えたら、歌わせてくれました。私、教会幼稚園だったから、クリスマスにはクリスマス会でイエス•キリストの降誕の劇をするわけですよ。その時の私の役が、天使。だけど、登場したらいちばん端っこにすっ飛ばされてしまいました。すごく存在感が希薄な子供だったので、写真でもクリスマス•ツリーの陰に隠れてしまっていましたね。でも一応初めてやった役が天使だったのは、ちょっと自慢かな。それに、人様の前で初めて歌った歌が賛美歌っていうのもちょっと素敵でしょ?

13.The homage for Jean-Luc Godard 〜 movement #3/戸川純(『2Oth Jun Togawa』2003年再発•特典盤)

今回の中でいちばん即興性が高い曲です。2002年6月8日に青山のCAYで『intoxicate〜GODARD MINUS ONE』というゴダール絡みのイベントがあり、ホッピーから「自分のコーナーで2曲一緒に何かやってくれない?」と電話があったので、1曲は「ラジオのように」をヘタクソなフランス語で即興で朗読して、もう1曲は「オール•トゥモローズ•パーテイーズ」を歌って帰ってきたら、実は録音してあったんですね。私は知りませんでした。しばらく経ってホッピーが「『20th Jun Togawa』を再発するから特典でつけていい?」と言うから、聴かせてもらって、OKしました。東口トルエンズのDVDを観た人は気づいているかもしれませんが、この曲は東口トルエンズのライヴのオープニング•テーマに使われています。久土君が私の曲をいっぱいMDでつなげたのをライヴ前の客入れの音楽としてかけていたのですが、最後に持ってきたのがこの曲でした。この曲が持っているインテリジェンスな雰囲気をブチ破るかのようにライヴが始まる、というのを久土君は狙ったみたいです。

14.リボンの騎士/仙波清彦とはにわオールスターズ(『IN CONCERT』)

これは『昭和享年』で取り上げた曲ですが、ここでは本当に大人数のビッグ•バンドで演奏されています。『昭和享年』ではファルセットのバック•コーラスを6人くらいの私がしているのですが、ライヴでは小川美潮ちゃんたちがやってくれてうれしかったです。

15. 二人のことば/戸川純(V.A.『失われたボールを求めて-寺山修司トリビュート-』)

寺山修司さん関係は本で少し知っている程度で、関連する曲は「あしたのジョー」と「時には母のない子のように」くらいしか知りませんでしたが、この企画の話が来て初期カルメン•マキのアルバムが届き、選曲するように言われてこの曲を選びました。歌詞も曲もキレイな曲だなあと思いました。だから、歌えてうれしかったです。演奏は、中ちゃんと当時ヤプーズのギターだった河野裕一君の3人でやりました。オリジナルの素朴な感じにピッタリの、邪念の邪の字もない感じを大切にしたアレンジになっていたから、いちリスナーとしても大办きです。

16.朝の流れ星/LION MERRY(『ドン•キホーテの従者』)

メリィさんはヤプーズのメンバーであった時期もあるし、個人的にもファンなんです。最初はメリィさんが私のことをファンだと言ってくれましたが、メリィさんのことを知ったら、私のほうがファンになってしまいました。だからこの曲ともう一曲を「歌って」と言われた時はすごくうれしかったです。この曲が収録されている『ドン•キホーテの従者』という作品は、ちゃんとストーリーがあるトータル•アルバムなんですよ。いつか私もこんなアルバムを……恐れ多いけれど作ってみたいなぁ、と思います。メリィさんの曲はメロディがキレイですね。

17.スキスキ大スキ/梵鉾(bom’boco)(『ラップたらちね』)

富樫春生さんが「ヤプーズでも戸川純はこういうのやったらいいのにと思ってた」と依頼してくれた曲です。タイトル的にセルフ•カヴァーと誤解されると困るから、“私の「好き好き大好き」とは別物です”というのを注意書きとして入れてくださいと言ったら、ちゃんと帯に入れてくれました。音楽的には、ステイーヴ衛藤と初めて一緒にやれたことがうれしかったです。昔の大キャバレーのビッグ•バンドみたいな曲なので、そこの専属歌手になった気持ちで歌いました。

18.鈴木建設社歌/(映画『釣りバカ日誌2』)

昭和のバンカラ学園が舞台の『ダウンタウンヒーローズ』という映画に、柳葉敏郎さんの彼女としてチョイ役で出た時、山田洋次監督が「わははは!」と笑って、他の人も「わははは!」と笑うので、「なんだ?なんだ?ここは笑うシーンじゃないだろう?」と思っていたら、「きみは何もしなくても、立ってるだけでおかしいね」と言われて、気に入られたんです。それで、山田監督が『釣りバカ日誌』の脚本をやっていた関係で、『釣りバカ日誌』にも入れてもらえて、出るようになりました。役柄は、しょっちゅう彼氏ができては別れる、という設定だったのですが、松竹は毎回ちゃんと私に見せ場を作ってくれようとしていました。この歌は、撮影現場で歌詞が配られて「すぐ覚えるように」と言われ、みんなで何回も何回も歌った覚えがあります。

19.ローハイド〜TVドラマ「ローハド」より〜/戸川純(ナイロン100℃ 21st SESSION『すべての犬は天国へ行く』OST)

私が出演したナイロン100℃の公演『すべての犬は天国へ行く』のサントラです。女の人しかいなくなった街が舞台の西部劇で、酒場の歌姫兼娼婦という設定だったので、出演するにあたって「ローハイド」を歌わせてくれと、私のほうから条件を出しました。西部劇といったら、「ローハイド」と思っていたので。ちなみに、♪ローレン ローレン ローレン♪と歌っていますが、よく考えたら、♪ローリング ローリング ローリング♪なんですよね。でも私が子供の頃の記憶でそう歌っているから、コーラスの人たちも迷わず♪ローレン ローレン ローレン♪と歌っています。掛け合いは、ナイロン100℃さんの女優さんです。西部のあの男くさい感じを日本人のしかも女性がやっているところが面白いと思います。

20.彼が殴るの/トリコミ(『彼が段るの』)

「2曲歌ってくれないか?」と言われて行ったら、4曲入りのアルバムだということを聞かされました。そのうちの1曲は水谷紹さん自ら歌うデヴィッド•ボウイの日本語カヴァーだったのですが、許可が取れないということで3曲入りの作品になったんですね。その後「ライヴをやる」と言われたのでライヴにも出て、いっぱい歌いました。それは、ライヴ•アルバム『Good girls get fed. Bad girls get eaten.』として発売されています。そのアルバムの発売記念ツアーにも参加しました。だからゲスト参加という感じがあまりしませんでした。これも大好きな曲です。

21.骨/ビル+戸川純(V.A.『HAVE A NICE DIE!-ハイテクノロジー•スーサイド•トリビュート-』)

ハイテクノロジー•スーサイドがどういうバンドかは失礼ながらよく知りませんでしたが、ヴォーカルのザ•クレイジーSKBとはライヴで面識があったので、参加することにしました。ビルのいぬん堂さんからこの曲を歌ってほしいと言われた時、皮肉にも私は骨折して入院していたので、病院のベッドで曲を覚えました。レコーディングは退院して間もない時だったので、車椅子でスタジオまで行って録りました。「パンク蛹化の女」をスタジオで録音したことがないように、スタジオはスタジオ、ライヴはライヴと分けていましたが、この曲は珍しくライヴのような感じでスタジオで録音しました。最後の「拝まないでくれ!」がいいですね。

22. Femme Fatale/戸川純(カセット•マガジン『TRA5 SUMMER 1984』)

この頃、カセット•ブックというメデイアが流行っていました。この時は音と一緒に絵も提供してと言われたので、私の描いた絵が2枚、『TRA5』のブックレットのほうに掲載されました。音は、当時ヤプーズのギターだった比賀江隆男君と一発録り。ニコは“三人称で実は一人称”な感じで歌っている雰囲気がありますが、私は「あの女の人を好きになったら、ダメダメになっちゃうぞ」と、『真夏の夜の夢』のいたずら好きな妖精“パック”みたいなイメージで、あくまで三人称で歌いました。だから、ニコほど重くないと思います。実は、この仕事に関しては藤原ヒロシ君が、コンピレーション•アルバムで選んでくれなかったら、完全に忘れてましたね。彼にも感謝しています。

Legend ∞

以上、駆け足ではありますが、私の個人史を振り返ってみました。『TOGAWA LEGEND』というタイトルはスタッフの中から出てきた案ではありますが、私自身、かつてリリースした『玉姫伝』のように、大袈裟なものを笑いにするのが好きなので、思い切ってそんな大仰なものにしてみました。レコード会社をまたいで、ここまで網羅できたことを心から大変うれしく思います。いろいろな歌を歌ってこれて、そして、いろいろな人たちにいろいろな、素敵な歌を歌わせてもらってきたんだなぁ、と今あらためて幸せを嚙みしめています。みなさんありがとう。これからも戸川は、邁進に努めさせていただきます。(談)

2008年5月吉日

Disc 1 Tracklist

  1. 諦念プシガンガ
  2. 昆虫軍
  3. 隣りの印度人
  4. 玉姫様
  5. 蛹化の女
  6. 怒濤の恋愛
  7. Radar Man (Original Mix)
  8. 母子受精 (Original Mix)
  9. 電車でGO
  10. 踊れない
  11. 眼球奇譚
  12. 海ヤカラ
  13. 極東慰安唱歌
  14. 夢見る約束
  15. 遅咲きGirl (Single Mix)
  16. 好き好き大好き
  17. Aurora B
  18. 恋のコリーダ
  19. さよならをおしえて (Single Version)
  20. Free Talking
  21. Punk 蛹化の女
  22. 工場見學
  23. 動力の姫
  24. マロニエ読本

Disc 2 Tracklist

  1. Barbara Sexeroid
  2. 肉屋のように
  3. Collector
  4. Virgin Blues (Single Version)
  5. 吹けば飛ぶよな男だが
  6. Men’s Junan
  7. Hysteria
  8. 赤い戦車
  9. 君の代
  10. Virus
  11. 12階の一番奥
  12. NOT DEAD LUNA
  13. Theme
  14. HYS
  15. いじめ
  16. Open the Door
  17. Comme à la radio (Brigitte Fontaine Cover)
  18. 地球ゴマ
  19. 青銅の軟体
  20. 東口Toluenes’ Theme

Disc 3 Tracklist

  1. Mustard
  2. GESSEKAI RYOKOU
  3. Shinkuu Kiss
  4. Figure & Ground
  5. G Kachiku Kaikyo (G 家畜海峡; G The Cattle Straights)
  6. Seinaru Izumi ~Mosura no Tabidachi~ (聖なる泉~モスラの旅立ち~; Journey ~The Sacred Fountain of Mothra~)
  7. Shinsei mu Teikoku Boukoku Uta (神聖ムウ帝国亡国歌; Sacred Empire Ruined Country Song)
  8. Oh Bureneri (おおブレネリ)
  9. Rhythm Undo (リズム運動; Rhythm Motion)
  10. Raja Maharaja
  11. Soshu Yakyoku (蘇州夜曲; Suzhou Nocturne)
  12. Kotan Bushi (降誕節; The Nativity Scene)
  13. The Homage to Jean-Luc Godard – movement #3
  14. Ribon no Kishi (リボンの騎士; Ribbon Knight)
  15. Futari no Kotoba (二人のことば; The Words Togetherness)
  16. Asa no Nagareboshi (朝の流れ星; Shooting Star in the Morning)
  17. Suki Suki Daisuki (スキスキ大スキ; Like Like is Like)
  18. Suzuki Kensetsu Shaka (鈴木建設社歌; Suzuki Construction Company Song)
  19. Rawhide
  20. He uses violence (彼が殴るの)
  21. Bone (骨)
  22. Femme Fatale