GUERNICA 20周年記念完全盤

ゲルニカ宣言

第一宣言

二十世紀上半期の前衛音楽、大衆音楽を洋の東西を問わず、その同時代性に鑑み折衷すべく捏造の自己欺瞞顧ず、日々是製作に明け暮れ、その態度までをも含む領域を作品として世に問う。

第二宣言

我々は起つ!
過去音楽圏より分離し、総の音楽をして
 真に意義あらしむる新音楽圏を
  創造せんがために。
我々は起つ!
過去音楽圏に眠って居る総のものを
 目覚さんがために、
  溺れつつある総のものを救わんがために
我々は起つ!
我々の此理想の実現のためには、
 我々の総のものを愉悦の中に献げ、
  倒るるまで、死にまでを期して。
我々一同右を世界に向かって宣言する!!

この文章は、我国初の近代建築運動の旗手、分離派建築協会の「分離派建築宣言」より範をとった。

ゲルニカの組成

新型鍵盤奏者にして作曲家、戦前アヴァンギャルドに大衆性を加味した折衷様式とても言うべき作風を誇る上野耕路(Koji Ueno)による作曲·編曲及び演奏、巧みな表現力を身に付けた女優でもあり輝くばかりの美声の持主、様々な分野で男性芸術家を圧倒する活躍を見せる歌姫戸川純(Jun Togawa)による創唱とも言うべき歌唱、ダンディズムと獵奇趣味を摇く蛇状曲線体の中に猫き、又突き離さんばかりの単刀直入な詩体を誇る詩人でもある画家太田螢一(Keiichi Ohta)による歌詩·美術によりゲルニカは成る。

ゲルニカとは何か?

そもそもゲルニカとは、ナチスドイツにより爆擊破壞されたスペインはバスク地方の小都市の名称である。
この暴挙に怒りを覚えた同鄉の画家パブロ·ピカソはかの傑作「ゲルニカ」を描ききったのである。
我々は不遜にもその名を着服し、我音楽団の名称とした。

謝辞

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このような形でゲルニカの全貌が見渡せる企画が完成したことに寄せて、以下の方々にお礼を述べたい。まずは青春の一時期を共に過ごした才能あふれるメンバー二人に。君達の才能は、他から圧倒的に抜きん出ている。今後君達の才能を超える人物にはそう滅多にお目にかかることはないであろう。傑出した君達と一緒に仕事が出来たことは幸運であった。君たちもその唯一無二の才能に恵まれたことと、こうした作品を残したことをどうか誇って欲しい。

彼等メンバーとの出会いは、泉水敏郎君が太田螢一氏との出会いのきかっけを作り、久保田真吾君が戸川さん本人と衆目 にはまだ触れていなかった彼女の歌の才能を僕に最初に紹介した。

細野晴臣さん、彼に拾われなかったらゲルニカは、アルバムといえばインディーズからといった当時の幾多のライブバンドと同じ運命を辿っただけだったように思う。その後の人々との交流、幾つかのプロジェクトへの参加という経緯を考えると、彼の許に集ったのとそうでないとでは、発展において雲泥の差があったように思える。拾われた私たちはいささか野良猫のような連中で、その後何かとイライラさせたかもしれない。どうかその時の若さ(1981年当時、太田:24オ、上野:21オ、 戸川:20オ)に免じてお許し願いたい。御本人は忘れているようだが、ファースト•アルバム中「曙」「大油田交響楽」「動力の姫」の3曲はアルファのスタジオで録音した。また「潜水艦」の泡の音、「曙」のハープの音をプロフェット5で作ったのは細野さんだ。また、とっておきの話しとしては、へヴィ•オーヴァーダブのせいでダビングするトラックがなくなったため、「曙」の後半のとある早いカノニックなパッセージは細野さんと僕で同時に手分けして弾いてトラック数を稼いだ、という事実がある。レコーディングをしたLDKスタジオのモニターの前で、プレイパックを聴きながら、スケートを滑る真似をしたり、チャップリンの歩き方を披露していた細野さんの様子が今でも目に浮かぶ。その時の写真がないのが非常に残念だ。

ファースト•アルバムに続くシングルをオーケストラで録音できたのは、一枚目をそれなりの成功と見なしたアルファ• レコードのおかげだ。ホルン×4の代わりにサックス×4(アルト2、テナー2)という変則2管編成だったが、それが僕の最初のフル•オーケストラ•アレンジとなった。

1984年の僕のコンサートに来てくれた後、親友となったビンセント•ラットマンと彼の伴侶ひさのは、現在に至るまでゲル ニカのみならず僕の創造性に絶大な信頼を置いている数少ない人々である。彼等がいなかったらもう一度ゲルニカのことを 振り返ってみようと思ったかどうか疑わしい。オフィシャル•サイトのデザインに続き、今回のメイン•アートワークはビンセントによるものである。彼をアシストするひさのともども感謝している。

ゲルニカのファースト•アルバム発売の次の年に、某雑誌のインタヴューワーとしてお宅にお邪魔して以来、日本音楽界の重鎮的作曲家伊福部昭師からは、創作上の土台となる貴重な教えと幾つかの技術を授かった。その第一回にお宅にお邪魔した折りに、師はゲルニカのファーストをすでに持っておられたことは、僕が遭遇した驚くべき事件のーつだ。彼の一言「ゲルニカはどうしたのですか」がなかったらセカンド•アルバム以降の再結成はなかったと思われる。それまでデタラメだった僕のノーテーションを正し、まともなオーケストラのスコアが書けるようにしてくれたのは彼の導きによるもので、それがなければゲルニカのセカンド•アルバムを含む後の種々のオーケストラを使用する仕事で僕は綿々と恥を晒し続けたことであろう。

伊福部昭師との仕事を通して知り合った指揮者の熊谷弘氏がいなかったらセカンド〜サード•アルバムのオーケストラ•サウンドは得られなかったであろう。もともと指揮が下手な(というか最初からやる気のない)僕が指揮を執っていたらと思うだけで赤面してしまう。セカンド以降、彼はアルバムを作る必須条件であった。彼は映画音楽の指揮で鳴らした人で、ゲルニカのセカンドの「集団農場の秋」の録音の時、その技術が発揮された。セカンド•アルバムはコンピューター演奏によるピアノがその他のオーヴァーダブをする上でのベーシック•トラックとなっていた。「集団農場の秋」のエンディングはアッチェレランドするのだが、それは予めコンピューターによりテンポ設定されていたわけである。彼は一度だけそのべーシック•トラックを聴き、「分かった」と言って苦もなくピアノのベーシック•トラックと同じテンポ•チェンジでタクトを振り、オーケストラをそれに見事に合わせてしまったのである。これこそは映画の画面の変化に音楽を合わせてしまうという映画音楽の指揮の技術によって培われたものだった。レコーディング期間中、彼の飄々とした偉ぶる様子のない気さくな人柄にもどれほど勇気づけられたか知れない。

セカンド~サード•アルバムのミュージシャン達、とくにストリングスのメンバーを最初に紹介してくれたのはサックス•マエストロにして作曲家の清水靖晃氏である。彼がほぼ全面的に協力してくれた僕のアルバム「ミュージック•フォー•サイレント•ムーヴィーズ」のライブとレコーディングの折に、彼は、若くて素晴らしいミュージシャンを知っているということで、金子飛鳥さんたちのストリングスのチームを紹介してくれた。清水氏自体はゲルニカに実際に参加することはなかったが、彼こそは、セカンド〜サードのサウンドの土台ともいうべき金子飛鳥さん率いるストリングスをゲルニカにもたらした張本人である。ロンドンでもストリングスの録音に立ち会ったことのある身としては、彼女等の技術に何らロンドンのミュージシャン達に見劣りする点はないことを保証する。また金子さんを通して、チェロの向山佳絵子さん、ヴァイオリンの桑野聖君、また桑野君を通してクラリネットの日比野裕幸君を知った。このような素晴らしいミュージシャンが参加してこそ実現したのがセカンド以降のレコーディングとライブである。このたぴ幸運にもボーナス•トラックに彼等3人と僕という伴奏によるライブが収録されている。

現在も僕のマネージメントを引き受けてくれている株式会社エヌ•ツー、石黒典生氏、市川博子さんこそはゲルニカのセカンド以降の実質上の最大の功労者である。ファースト•アルバムから6年のブランクを経て再結成したゲルニカに、発表の場を提供しようという会社はなかった。また、ヴォーカリストがもうーつのバンドとダブっていたため歌唱契約が既にテイチクと結ばれていた。その歌唱契約があるとも知らずレコード会社探しに孤軍奮閼していた僕を救ってくれたのは、ヴォーカリストが同一のもうーつのバンドを手掛けていた彼等だった。一時離れていたこともあったが、彼等ほど僕の創作環境を気遣ってくれる人達はいない。ゲルニカを再結成して最も素晴らしかったことはそのアルバムを制作した以上に彼等と知り合ったことだったのかも知れない。作品は完成すれば過去のものであるが、生身の作曲家はその後も創作し続ける。そしてその過程はいつも順調とは限らない。その傍らにいる人達はその作曲家のとばっちりを受けてしまう。基本的にくよくよしない彼等の生き方が、とかく非観的になりがちな僕を実に支え続けているのだ。

さて数年ぶりにゲルニカを聴きかえして思うことは、その後の自分が取った音楽へのアプローチとの違いである。最近読んだChristopher Palmerの”Composers in Hollywood”という本の中にその答のヒントとなる文章を発見した。その本の中のハリウッドを代表する作曲家の一人ディミトリ•ティオムキンについての章である。ティオムキンは革命後のロシアからパリ経由でハリウッドに渡った口シア人作曲家である。著者は彼の音楽を伝統的なロシア音楽についてのある研究書に照らし合わせ、ティオムキンの音楽にロシアの伝統に連なる同質のものすなわち目の前を通り過ぎる事実を逐次追おうとする音楽の傾向を見る。遠からずの表現としては叙事的といってもよいことかも知れない。ロシアの作曲家にとって最も重要なのは事実”fact”でありティオムキンはまさに映画において繰り広げられる事実を音楽で追っているというのである。それはムソルグスキーやショスタコーヴィッチのオペラにも見られる傾向という。ゲルニカの音楽は歌詞における事実の羅列に左右されながら進んで行く音楽のように聴こえる。つまりティオムキンにおける映画上の事実が、ゲルニカにおいては歌詞が提供する事実に当たるように聴こえたのだ。この傾向と正反対なのがシステマティックな音楽である。即ち、ある法則性から音楽を紡ぎ出すという基本姿勢である。ここに具体的な事実や出来事が入る余裕はなぐ、ひたすら抽象的になるというわけである。ゲルニカ以降、僕はシステムを探求する方へと向かった。即ちゲルニカとは全く正反対の方へと向かったわけだ。ゲルニカ•ファンが僕の個人的な活動に興味を示さない理由はこのへんにあるのだろう。確かにゲルニカ、特にファースト•アルバムを作っている時に最もよく聴いていた音楽(最も尊敬していた音楽とは異なる)はプロコフィエフだった。彼の音楽もやはり聴く者の眼前を事実が通り過ぎるといった風情がある。ファーストの録音の合間、細野氏を交えてプロコフィエフの第5シンフォニーの第4楽章を皆で聴いた。もう誰も覚えていないことだろうが、それは何か象徴的な一時だったような気がする。

ここでティオムキンのアカデミー賞受賞のスピーチのように、作曲家の名前を列挙したい。この人たちの音楽の断片をゲルニカの音楽の中に実際に探すことができるからだ。言うまでもなく私が謝意を表さずにはすまされない方々である。
Arthur Honegger, Sergei Prokofiev, Akira Ifukube, Maurice Ravel, Béla Bartók, Andre Jolivet, George Gershwin, Maurice Jarre, Jerry Goldsmith, Antonín Dvořák, Dimitri Tiomkin, Dmitri Shostakovich, Darius Milhaud, Erik Satie, Igor Stravinsky, Jean Siberius, Woody Herman, Fred Katz, Ludwig van Beethoven, Cole Porter, Lou Reed, Roxy Music, Gustav Mahler


最後に、今後ゲルニカの再結成はあり得るかどうか?ゲルニカが最後に録音したサード•アルバムの「戒厳令」は数日しかなかった昭和64年(1989)の最後の日に終った。その曲はもともと入れる予定の曲ではなかった。本当は今回初出のサード•アルバムのボーナス•トラックの一曲が入る予定だったのだ。この未発表音源のことを考えるだけで撤回へと至った暗い出来事に押しつぶされそうになるのが常だったが、腹を決めてよく聞き込むと笑いが込み上げてきた。その笑いとはある感情表現などを強調し過ぎるとある段階で感情自体がその表現の強度に耐えられなくなることと同質のものだった。ゲルニカの音楽はどこかやり過ぎの感があり、そのやり過ぎには最後に笑いを引き起こす作用が潜んでいた。僕は自分の音楽に救われた。音楽にまつわる出来事をその音楽自体が吹き飛ばしてくれたのだ。作曲家としてこれ以上の至福を今後味わうことはあるのだろうか。いいや、これ以上の有終の美は望めまい。答はノーだ。

2002.10上野耕路

choronological table of “Guernica”
1977.7 太田啓一と上野耕路出会う。この時、太田はデザイナー養成学校の学生、上野は高校三年。以後、泉水敏郎が始めたバンド「8½」、太田螢一率いるグループ展「パノラマ·アワー」、ハルメンズを通じて交友を深める。
1979.9 戸川純、日比谷野外音楽堂で「8½」を見る。
1980.9 戸川、ハルメンズのレコーディングを見学。
1980.10 上野、久保田憤吾から、戸川が「蘇州夜曲」を歌うテープを聞かさせられ、新しいバンドのコンセプトのヒントを得る。
1980.10 上野、戸川に新しいバンドのヴォーカリストになってくれるよう説得。リハーサル開始。当初のバンド名は「イントナルモーリ」(イタリア未来派のルイジ·ルッソロが考案/作成し演奏した騒音楽器の名前)
1980.12 最初にオリジナルに書かれた歌「ブレへメン」誕生。
1981.2 太田螢一、作詞/美術でバンドに参画するよう要請される。太田のアイデアでバンド名を「ゲルニカ」に決定。1981.5ナイロン100%で最初のライブ。この時演奏したのは「ブレへメン」「カフェ·ド·サヰコ」「工場見學」「蘇州夜曲」の4曲。以後ライブを重ねる毎に新曲が追加される。
1981.7 デモテープが完成し、プロモーション開始。
1981.9 太田の知人のデザイナーのつてで、デモテープが細野晴臣の手に渡る。興味を示した彼から、新レーベル(¥レーベル)及びYMOのツアーへの参加を打診される。
1981.12 1stアルバムのレコーディング開始。当初デモテープに収録した曲を新録音する予定だったが、細野の案でデモをベーシック·トラックとしてそのまま使用することになる(ヴォーカルは再録音)。〜1982.3
1982.6 1stアルバム発売。
1982.9 シングル盤の企画が持ち上がる。アルバムの企画もあったが、メンバー間の意見が衝突し不発に終る。
1982.10 シングル「銀輪は唄う」「マロニエ読本」録音。ホルンの代わりにサックスを配した2管編成のオーケストラ用に編曲。これ以後のサウンドは「夢の端々」(アルファ盤)を除き、シンセのへヴィー·オーバー·ダブからオーケストラにチェンジ。
1982.12 シングル発売。労音会館にて初の演出されたコンサート。
1983.2 シングルの曲とともに清涼飲料水のCMに出演。しかしメンバー間の衝突が激化し活動休止。代替案として各メンバーのソロアルバムの企画書をレコード会社に提出。
1986.8 再結成の計画浮上。
1987.6 再結成後初の新曲「磁力ビギン」「水晶宮」デモテープ作成。
1988.4 2ndアルバム録音。2管〜3管編成のオーケストラ、ビッグ·バンドを使用。
1988.7 2ndアルバム発売。復活後最初のライブ
1988.10 室内楽を使ったライブ。以後のライブはこのスタイルとなる。
1988.11 3rdアルバム録音。〜1989.1
1989.4 3rdアルバム発売。発売記念コンサート。

ゲルニカの出現は日本の音楽史上、ある極点を示しているだろう。つまりそこから先は誰も行けない深遠の果てに位置している。それはかつて誰もその存在すら知らなかった感覚の発見を意味する。フランス近代以降に花開いた華麗で意地悪な音楽を思い出しても良いが、そのミヨーやプーランクでさえ想像できない極東の花がゲルニカだ。

「新人類」という世代論がブームのさ中、上野耕路と戸川純そして太田螢一に会った。奇妙で愛らしい振る舞いの彼らが持ってきたデモ•テープを聞いたとき、それはもはや完ぺきな作品だった。カセットに記録された夢のような音楽を、ほとんどそのままアルバムにしたのがデビュー•アルバムとなったわけである。当時日本のポップスがここまで来たのかという思いを忘れてはいけない。

細野晴臣

収録曲

Album Cover

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DISC 1
改造への躍動」+「銀輪は唄う/マロニエ読本」+未発表音源

  1. Bremen
  2. Cafe de Psycho
  3. 工場見学
  4. 夢の山嶽地帯
  5. 動力の姫
  6. 落日
  7. 復興の唄
  8. 潜水艦
  9. 大油田交響楽
  10. Skating Rink
  11. 銀輪は唄う(1990年2月25日版のみ)
  12. Marronnier 読本(1990年2月25日版のみ)
  13. 戒厳令 (Demo Tape/1981)
  14. 蘇州夜曲 (Demo Tape/1981)
  15. 潜水艦 (Demo Tape/1981)
  16. 動力の姫 (新宿Loft 現場/1982.7.24)
  17. 銀輪は唄う (渋谷Live Inn 現場/1988.11.9)
  18. 潜水艦 (渋谷Live Inn 現場/1988.11.9)

DISC 2

Album Cover

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新世紀への運河」+未発表音源

  1. 磁力Begin
  2. 集団農場の秋
  3. 水晶宮
  4. 二百十日
  5. 少年の一番の友
  6. Cloud 9
  7. Panorama Hour
  8. 輪転機
  9. 交通賛歌
  10. 電力組曲 a:Damの唄
  11. 電力組曲 b:電力の道筋
  12. 電力組曲 c:電化の暮らし
  13. 髑髏の円舞曲
  14. 絶海
  15. 磁力Begin (Demo Tape/1988)
  16. 水晶宮 (Rehearsal/1987)
  17. 輪転機 (渋谷Live Inn 現場/1988.11.9)
  18. 髑髏の円舞曲 (渋谷Live Inn 現場/1988.11.9)
  19. 磁力Begin (Rehearsal/1987)

DISC 3

Album Cover

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電離層からの眼指し」+未発表音源

  1. 地球ゴマ
  2. 百華の宴
  3. ノンシャランに街角で
  4. 海底Tunnel
  5. 或る雨の午后
  6. Annapurnaの鐘
  7. 青銅の軟体
  8. 来たれ死よ
  9. 戒厳令
  10. 夢の端々
  11. 陸標
  12. All Quiet on The Western Front (Instrumental)
  13. ノンシャランに街角で (Instrumental Version)

CD EXTRA. 髑髏の円舞曲 (Video Clip/渋谷Live Inn 現場/1988.7.24 )